頑張らない体験断念記
頑張っていない私の自由な生活の記録を残すつもりで始めたブログですが、頑張らないことが無理な状況になってしまいました。従って、前タイトル「頑張らない体験記」から「頑張らない体験断念記」にタイトルを変更し、とりあえず日常を綴ることにしました。
2019.05.30
1週間前の5月23日の木曜日。
叔母の家と祖母の家に言ってほしいと母に頼まれていました。
しかし前日の夜から布団を被っても寒かったり少し気持ち悪かったりしていました。
そのことを当日の朝に母に伝えていたのですが、午後に仕事から帰ってきた母に私の車で行くつもりで帰ってきたと言われました。
私はそれでも辛いと伝え、母も行かなくていいと言ってくれたのですが、そう言いながら母が何か一人でグチグチ言っていたので、結局行くことにしました。
まず叔母の家に行って、そのあと叔母と母が2人で祖母のところに行くことに。
私は休んでていいとのことで叔母の家で横になりながらお留守番をしていました。
祖母のところから帰ってきた母と叔母が夕飯どうするかと話し始めました。
正直私はもう帰りたかったのですが、叔母の前ではなんだか申し訳ない気持ちになって言えずに車で10分ほどのところのファミレスに行くことになりました。
食事はいつも通りな感じで始まりましたが、その終盤。
突然お腹が痛くなり始めてもう少しの量ではありましたが食べきれなくなりました。
そして御手洗に行こうと立ち上がったところで軽くフラつき気持ち悪くなりました。
なんとか御手洗に到着し、腹痛と格闘。
お腹を壊すでもなくただただ痛みだけ。
大量の汗が流れてきました。
痛みが治まる気配はありませんでしたが、少し動けそうになった所で席に戻りました。
そして車の後部座席で横になってくると母と叔母に伝えて一度お店を出ました。
少し良くなった頃に店内に戻ってもう一度御手洗に行ったのですが、また汗だけかいて特に何も起こりませんでした。
お店にいても落ち着かなかったので、もう帰ろうと叔母と母に言って叔母の家に戻ることにしました。
母がお会計をしている間にもう一度御手洗に行くと、ここでやっとお腹を壊しました。
お腹を一度壊せば少しは楽になると思って安心しながら叔母の家へ。
叔母の家で休ませてもらってから帰宅することにしました。
その間も腹痛はあったのですが、何度も御手洗に駆け込むというほどではありませんでした。
1時間に1度の御手洗のペースになったぐらいで帰宅しました。
帰宅中は突然御手洗に行きたくなるようなこともなく無事にできました。
夜、眠りにつこうと横になるのですが、激しい腹痛が1時間に1、2回。
叔母の家にいた時からですが、大腸の中は空になっていたようで血液のみが出てくるようになっていました。
下血です。
人生初下血です。
激しい痛みの後は必ず下血がありました。
そんなこんなで夜は眠れず。
腸を刺激しないように24日の金曜日は食事はせずにお茶とお湯のみを口にしました。
下血はそんなに長く続かずに、その日の夜にはなくなりました。
それでも腹痛だけは残りました。
だいたい15分に1度のペース。
この日も眠れません。
どんな体勢をとっても痛みは和らぐことはなく、ただただ耐えるのみ。
翌日25日のお昼頃に腹痛の頻度は少なくなってきて、そこで少し長めに眠ることができました。
その日の夜にお粥を食べてみました。
前日食事をせず、この日も朝から食事はしていなかったのですが、不思議と全く空腹になることはありませんでした。
それでも胃に少し何か入れておこうと白粥を。
食べても胃腸に何も問題は起きませんでした。
お腹の痛みはあるものの少し眠れるようになって26日。
この日も夜にお粥を食べたのみ。
相変わらず空腹にならない不思議。
腹痛はまだあり。
27日。
朝に牛乳を飲んでみました。
問題はありませんでした。
夜は外食で2色丼を食べてみました。
大丈夫でした。
28日。
普通睡眠もとれるし食事もできる状態でしたがまだ腹痛が残っていました。
そして29日。
とうとう腹痛から解放されました。
母は並外れた元気人間なので私の疲れとか調子悪いという状態が理解できないみたいで、今後はより強く断る時は断らないといけないと思いました。
健康のため、社会復帰のためにも。
叔母の家と祖母の家に言ってほしいと母に頼まれていました。
しかし前日の夜から布団を被っても寒かったり少し気持ち悪かったりしていました。
そのことを当日の朝に母に伝えていたのですが、午後に仕事から帰ってきた母に私の車で行くつもりで帰ってきたと言われました。
私はそれでも辛いと伝え、母も行かなくていいと言ってくれたのですが、そう言いながら母が何か一人でグチグチ言っていたので、結局行くことにしました。
まず叔母の家に行って、そのあと叔母と母が2人で祖母のところに行くことに。
私は休んでていいとのことで叔母の家で横になりながらお留守番をしていました。
祖母のところから帰ってきた母と叔母が夕飯どうするかと話し始めました。
正直私はもう帰りたかったのですが、叔母の前ではなんだか申し訳ない気持ちになって言えずに車で10分ほどのところのファミレスに行くことになりました。
食事はいつも通りな感じで始まりましたが、その終盤。
突然お腹が痛くなり始めてもう少しの量ではありましたが食べきれなくなりました。
そして御手洗に行こうと立ち上がったところで軽くフラつき気持ち悪くなりました。
なんとか御手洗に到着し、腹痛と格闘。
お腹を壊すでもなくただただ痛みだけ。
大量の汗が流れてきました。
痛みが治まる気配はありませんでしたが、少し動けそうになった所で席に戻りました。
そして車の後部座席で横になってくると母と叔母に伝えて一度お店を出ました。
少し良くなった頃に店内に戻ってもう一度御手洗に行ったのですが、また汗だけかいて特に何も起こりませんでした。
お店にいても落ち着かなかったので、もう帰ろうと叔母と母に言って叔母の家に戻ることにしました。
母がお会計をしている間にもう一度御手洗に行くと、ここでやっとお腹を壊しました。
お腹を一度壊せば少しは楽になると思って安心しながら叔母の家へ。
叔母の家で休ませてもらってから帰宅することにしました。
その間も腹痛はあったのですが、何度も御手洗に駆け込むというほどではありませんでした。
1時間に1度の御手洗のペースになったぐらいで帰宅しました。
帰宅中は突然御手洗に行きたくなるようなこともなく無事にできました。
夜、眠りにつこうと横になるのですが、激しい腹痛が1時間に1、2回。
叔母の家にいた時からですが、大腸の中は空になっていたようで血液のみが出てくるようになっていました。
下血です。
人生初下血です。
激しい痛みの後は必ず下血がありました。
そんなこんなで夜は眠れず。
腸を刺激しないように24日の金曜日は食事はせずにお茶とお湯のみを口にしました。
下血はそんなに長く続かずに、その日の夜にはなくなりました。
それでも腹痛だけは残りました。
だいたい15分に1度のペース。
この日も眠れません。
どんな体勢をとっても痛みは和らぐことはなく、ただただ耐えるのみ。
翌日25日のお昼頃に腹痛の頻度は少なくなってきて、そこで少し長めに眠ることができました。
その日の夜にお粥を食べてみました。
前日食事をせず、この日も朝から食事はしていなかったのですが、不思議と全く空腹になることはありませんでした。
それでも胃に少し何か入れておこうと白粥を。
食べても胃腸に何も問題は起きませんでした。
お腹の痛みはあるものの少し眠れるようになって26日。
この日も夜にお粥を食べたのみ。
相変わらず空腹にならない不思議。
腹痛はまだあり。
27日。
朝に牛乳を飲んでみました。
問題はありませんでした。
夜は外食で2色丼を食べてみました。
大丈夫でした。
28日。
普通睡眠もとれるし食事もできる状態でしたがまだ腹痛が残っていました。
そして29日。
とうとう腹痛から解放されました。
母は並外れた元気人間なので私の疲れとか調子悪いという状態が理解できないみたいで、今後はより強く断る時は断らないといけないと思いました。
健康のため、社会復帰のためにも。
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2019.05.18
ブログのタイトルを変えました。
一年以上にわたり頑張っていない生活の記録と嘘をつき続けた形になってしまっていたので、ここにきて訂正致した次第です。
今週の月曜日あたりから喉がイガイガしています。
近頃気温差の激しい日々が続いたことに加えて疲労が溜まっていたこともあって少し体調を崩してしまったようです。
今溜まっている疲労は遡ること元号が変わる10日程前のこと。
どこかの職場で平成最後のアルバイターになろうと思い立ちました。
ちょうど良さそうなところが見つかりネットで応募。
数回電話でのやり取りがあった後に面接。
面接はしばらく暖かい日が続いてからの寒の戻りで寒い日でした。
和やかに面接は終わって現場見学もさせていただきました。
最後に働くかどうか決まったら4月30日までに連絡をくださいと言われました。
帰宅途中の車の中で腹痛に襲われました。
寒さで身体が冷えたみたいです。
しかしお腹を壊すことはありませんでした。
ただただ痛いだけ。
ホッカイロを腹部に貼って布団にくるまっていたら良くなりました。
翌日、体調が優れませんでした。
しかし連絡をしないと。
辞退の連絡をしないと。
そう、アルバイトを辞退したのです。
時給も時間帯も場所も仕事の内容も良かったのです。
ただ一点、交通費の支給がないというところがネックとなって辞退することになったのです。
週3日働くとして、ざっと交通費を計算してみると年間で2万円程。
働く日数を増やせばその分交通費も増えます。
なかなか見逃せる金額だとは思えませんでした。
ちなみに交通費については面接の時に聞くまではどこにも掲載がなくてわからなかったのです。
辞退の連絡をした時には元号が変わるまで一週間を切っていました。
更に体調も崩していたので平成最後のアルバイターになることはここで断念しました。
頑張って電話で辞退を伝えてからは少しぼーっとしてふらついた感覚でした。
そんな状態の私を後目に母がホットカーペットを取り替え始めました。
4月の初め頃にホットカーペットが電源を入れてもつかなくなったので、新しく買ったのです。
買ってからしばらく放置されていたのですが、また寒くなってきたのを機に取り替えることにしたみたいです。
母が一人で始めたのはいいのですが、見ていられないところが多々。
体調が悪いと思いながらも手伝うことに。
半袖半ズボンに着替えての作業でした。
クタクタになりました。
それから2日ぐらいはぐったり。
そして平成最後の日。
まだ軽く不調でしたが、ゴールデンウィークでうちに帰ってきていた一人暮らしの弟を弟の一人暮らしの家まで車で送ることに。
ゴールデンウィーク中ということもあって下りは渋滞がおきていましたが、それほど天気の良い日ではなかったのでまだマシだったと思います。
家を出てから3時間半程で帰宅。
長い旅でした。
その日の夕方に母が洗濯物が乾いていないと困り顔。
なのでコインランドリーに乾燥に行ってきました。
私の平成最後の大仕事はコインランドリーで乾燥になりました。
翌日はまたぐったり。
その翌日も疲れは取れていなかったのですが、母がハンガーラックを作り始めました。
両親の部屋のハンガーラックが壊れたとのことで、新しく買ったみたいです。
それもしばらく放置されていたのですが、この日に作り始めました。
一人で作ると言うのでしばらく放っておいたのですが、やはり見ていられず。
追い打ちをかけるように母から衝撃の一言。
「もう1つあるんだよね。」
手伝うことにしました。
1つ目はあと少しのところまで来ていたようで私が手伝ってからはわりとすぐに完成。
と思いきや、余っている部品が2種類。
1種類は余っても良かったのですが、もう一種類は取り付け忘れ。
ということで一部解体して取り付けました。
説明書を見ながら作ったはずの母、なぜ忘れたのか。
2つ目はわりとすぐに完成。
だけどこのハンガーラックの謳い文句、誰でも簡単に作れますというのは訂正すべきだと思いました。
片つけから何からがっつり協力してまたもやクタクタ。
ゴールデンウィークが明けた5月7日。
母が叔母と九州に旅行に行くととのことで羽田空港まで車を出しました。
頼まれたわけではなかったのですが、前日からよく眠れなくて早朝起きていたので送ることにしました。
朝5時半に出発。
そして9時過ぎに帰宅。
翌日は家中掃除機をかけて、しばらくしたら睡魔に襲われ眠ってしまいました。
目を覚ますと20時。
9時間程眠っていました。
母は旅行中に洗濯物は洗わなくてもいいと言っていたのですが、洗濯機の中は結構いっぱいになっていました。
目を覚まして入浴して髪を乾かして21時過ぎ。
時間も時間なのでまたしてもコインランドリーへ。
洗濯と乾燥を済ませて帰宅しました。
翌日、母と叔母が帰ってくる日。
昼頃母から電話がありました。
それは迎えに来てほしいという内容ではなかったのですが、私がお土産とかで荷物がいっぱいで大変だったらどこか駅とかまで迎えに行くから必要だったら言ってと伝えました。
その電話から1時間後、また母から電話がありました。
迎えに来て欲しいと。
どこまでか聞いたらまさかの羽田空港。
もっと遠慮してくれると思っていた私が甘かったです。
自宅から羽田空港、そして叔母の家まで行って自宅へのルート。
160㎞は運転したと思います。
それから今日までも自分の用では心療内科があり、他にも母と出かけたりしたのですが、何で出かけたのかはよく覚えていません。
今週の月曜日にJCOMの人が来てなんかいろいろやっていたのに朝から立ち会ったのは覚えています。
母はパソコンやらタブレットのことはよく分からないとのことで部屋に戻らせてくれなかったのです。
最近の事ほど記憶が薄れているのですが、元気いっぱいに復活する前に疲れるような何かがあったような気がします。
いつの何が原因で喉がイガイガしたのかは考えてももはやわかりません。
一昨日の夜と昨日の朝にホットミルクに蜂蜜を入れて飲んでみました。
そしたら喉のイガイガが軽減されました。
一年以上にわたり頑張っていない生活の記録と嘘をつき続けた形になってしまっていたので、ここにきて訂正致した次第です。
今週の月曜日あたりから喉がイガイガしています。
近頃気温差の激しい日々が続いたことに加えて疲労が溜まっていたこともあって少し体調を崩してしまったようです。
今溜まっている疲労は遡ること元号が変わる10日程前のこと。
どこかの職場で平成最後のアルバイターになろうと思い立ちました。
ちょうど良さそうなところが見つかりネットで応募。
数回電話でのやり取りがあった後に面接。
面接はしばらく暖かい日が続いてからの寒の戻りで寒い日でした。
和やかに面接は終わって現場見学もさせていただきました。
最後に働くかどうか決まったら4月30日までに連絡をくださいと言われました。
帰宅途中の車の中で腹痛に襲われました。
寒さで身体が冷えたみたいです。
しかしお腹を壊すことはありませんでした。
ただただ痛いだけ。
ホッカイロを腹部に貼って布団にくるまっていたら良くなりました。
翌日、体調が優れませんでした。
しかし連絡をしないと。
辞退の連絡をしないと。
そう、アルバイトを辞退したのです。
時給も時間帯も場所も仕事の内容も良かったのです。
ただ一点、交通費の支給がないというところがネックとなって辞退することになったのです。
週3日働くとして、ざっと交通費を計算してみると年間で2万円程。
働く日数を増やせばその分交通費も増えます。
なかなか見逃せる金額だとは思えませんでした。
ちなみに交通費については面接の時に聞くまではどこにも掲載がなくてわからなかったのです。
辞退の連絡をした時には元号が変わるまで一週間を切っていました。
更に体調も崩していたので平成最後のアルバイターになることはここで断念しました。
頑張って電話で辞退を伝えてからは少しぼーっとしてふらついた感覚でした。
そんな状態の私を後目に母がホットカーペットを取り替え始めました。
4月の初め頃にホットカーペットが電源を入れてもつかなくなったので、新しく買ったのです。
買ってからしばらく放置されていたのですが、また寒くなってきたのを機に取り替えることにしたみたいです。
母が一人で始めたのはいいのですが、見ていられないところが多々。
体調が悪いと思いながらも手伝うことに。
半袖半ズボンに着替えての作業でした。
クタクタになりました。
それから2日ぐらいはぐったり。
そして平成最後の日。
まだ軽く不調でしたが、ゴールデンウィークでうちに帰ってきていた一人暮らしの弟を弟の一人暮らしの家まで車で送ることに。
ゴールデンウィーク中ということもあって下りは渋滞がおきていましたが、それほど天気の良い日ではなかったのでまだマシだったと思います。
家を出てから3時間半程で帰宅。
長い旅でした。
その日の夕方に母が洗濯物が乾いていないと困り顔。
なのでコインランドリーに乾燥に行ってきました。
私の平成最後の大仕事はコインランドリーで乾燥になりました。
翌日はまたぐったり。
その翌日も疲れは取れていなかったのですが、母がハンガーラックを作り始めました。
両親の部屋のハンガーラックが壊れたとのことで、新しく買ったみたいです。
それもしばらく放置されていたのですが、この日に作り始めました。
一人で作ると言うのでしばらく放っておいたのですが、やはり見ていられず。
追い打ちをかけるように母から衝撃の一言。
「もう1つあるんだよね。」
手伝うことにしました。
1つ目はあと少しのところまで来ていたようで私が手伝ってからはわりとすぐに完成。
と思いきや、余っている部品が2種類。
1種類は余っても良かったのですが、もう一種類は取り付け忘れ。
ということで一部解体して取り付けました。
説明書を見ながら作ったはずの母、なぜ忘れたのか。
2つ目はわりとすぐに完成。
だけどこのハンガーラックの謳い文句、誰でも簡単に作れますというのは訂正すべきだと思いました。
片つけから何からがっつり協力してまたもやクタクタ。
ゴールデンウィークが明けた5月7日。
母が叔母と九州に旅行に行くととのことで羽田空港まで車を出しました。
頼まれたわけではなかったのですが、前日からよく眠れなくて早朝起きていたので送ることにしました。
朝5時半に出発。
そして9時過ぎに帰宅。
翌日は家中掃除機をかけて、しばらくしたら睡魔に襲われ眠ってしまいました。
目を覚ますと20時。
9時間程眠っていました。
母は旅行中に洗濯物は洗わなくてもいいと言っていたのですが、洗濯機の中は結構いっぱいになっていました。
目を覚まして入浴して髪を乾かして21時過ぎ。
時間も時間なのでまたしてもコインランドリーへ。
洗濯と乾燥を済ませて帰宅しました。
翌日、母と叔母が帰ってくる日。
昼頃母から電話がありました。
それは迎えに来てほしいという内容ではなかったのですが、私がお土産とかで荷物がいっぱいで大変だったらどこか駅とかまで迎えに行くから必要だったら言ってと伝えました。
その電話から1時間後、また母から電話がありました。
迎えに来て欲しいと。
どこまでか聞いたらまさかの羽田空港。
もっと遠慮してくれると思っていた私が甘かったです。
自宅から羽田空港、そして叔母の家まで行って自宅へのルート。
160㎞は運転したと思います。
それから今日までも自分の用では心療内科があり、他にも母と出かけたりしたのですが、何で出かけたのかはよく覚えていません。
今週の月曜日にJCOMの人が来てなんかいろいろやっていたのに朝から立ち会ったのは覚えています。
母はパソコンやらタブレットのことはよく分からないとのことで部屋に戻らせてくれなかったのです。
最近の事ほど記憶が薄れているのですが、元気いっぱいに復活する前に疲れるような何かがあったような気がします。
いつの何が原因で喉がイガイガしたのかは考えてももはやわかりません。
一昨日の夜と昨日の朝にホットミルクに蜂蜜を入れて飲んでみました。
そしたら喉のイガイガが軽減されました。
2019.05.13
元号が変わる少し前ぐらいから今日までいろいろとあったのですが、それは今回置いておいて昨日の夕方に見た夢の話をします。
3時間程度の睡眠のあいだに3つか4つの夢を見たのですが、そのうちの2つのお話です。
夢の内容は不思議なことが多いのですが、感覚としても不思議に思うことがあります。
夢か現実かわからなくなった時は頬をつねって痛かったら現実、痛くなかったら夢なんていう話を聞きますが、はたしてそうだろうか。
夢の中でもなんらかの感覚がある時もあるのにと私は思うのです。
1つ目の夢。
自宅のベランダに父と母と私が一緒にいる状況から始まります。
夜空を見ていると流れ星が。
現実に見るよりも大きく明るいものでした。
流星群のようにいくつも降り注ぐようになってきて、遠くに明るい光が落ちていくのが見えました。
星だと思ったのですが、父が雷だろうと言って雷ということになりました。
そんな環境で外にいては危ないと思い、父と母には家の中にいるように言いました。
そして私はもう少し空を見ると言ってベランダに残りました。
私は普段寝る時に使っている掛け布団をかけてベランダで仰向けになるようにして空を見ていました。
すると更に流星の勢いは増していき、ついには私の方向に明るい星の欠片、隕石の様なものが向かってきました。
私は布団を頭まで被って防御。
痛みや衝撃は無かったものの、ものすごい熱さを感じました。
布団が燃えたのではないかと思って確認してみたのですが、燃えてもいなければ穴があいたりなどもありませんでした。
その後私は掛け布団を持って家に入って行きました。
ツッコミどころは随分と多いと思うのですが、夢の話ですから。
夢とはそういうものですから。
この夢の中で私は熱を感じました。
ものすごく熱くて完全に燃えてると思うぐらいでした。
夢では感じることがないと思われていた感覚があったわけです。
このことから夢の中で頬をつねって痛いと思うこともあるのではないかと思うのです。
夢の中で感覚があったことは初めてではないのですが、熱さというのは初めてで、かなり印象に残ったのでここに書かせていただきました。
2つ目の夢。
テレビでこだわりのラーメン屋さんが特集されていました。
2店舗目の沖縄のお店のラーメンがとてもおいしそうだと思いながら見ていると、なぜか我が家のテーブルの上に。
なんだかんだで食べるタイミングがつかめなくて一度テーブルのある部屋を出ました。
そしてまたテーブルのある部屋に戻ると父と母がいました。
ラーメンの方に目をやると、麺もトッピングも減っている様子のないどんぶりに父のお箸が食べている途中のように浸かっていました。
父が口をつけたお箸が浸かっているということでもう食べられないと私は激怒しました。
父は変わった味がすると、母もスープを飲んだようで美味しかったとそれぞれ感想を言ってきました。
どんなに怒ってもヘラヘラ笑う父に私は更に激怒し、許せない気持ちになって自分の部屋へ行きました。
気がつくと私は眠りから覚めました。
そしてラーメンの一件が夢か現実かわからなくなる状態に。
この夢か現実かわからなくなる状態を2、3回繰り返して結論は出ませんでした。
この夢では夢の中で夢を見るという不思議な現象がおきました。
これも今までにも経験したことがあるのですが、こういう夢を見る度に不思議に思います。
今回現実で目が覚めた時にはその瞬間にラーメンの話が夢だったということが鮮明にわかっていました。
夢とは言っても目の前にある美味しそうなラーメンが食べられないのはとても残念なことでした。
いつも現実で起こった話をここでしていますが、たまには趣向を変えて現実味のない話をしてみました。
しかし夢の話を読まされたところで、だからなんだとしか思えないだろうなと自分で読み返して改めて思いました。
3時間程度の睡眠のあいだに3つか4つの夢を見たのですが、そのうちの2つのお話です。
夢の内容は不思議なことが多いのですが、感覚としても不思議に思うことがあります。
夢か現実かわからなくなった時は頬をつねって痛かったら現実、痛くなかったら夢なんていう話を聞きますが、はたしてそうだろうか。
夢の中でもなんらかの感覚がある時もあるのにと私は思うのです。
1つ目の夢。
自宅のベランダに父と母と私が一緒にいる状況から始まります。
夜空を見ていると流れ星が。
現実に見るよりも大きく明るいものでした。
流星群のようにいくつも降り注ぐようになってきて、遠くに明るい光が落ちていくのが見えました。
星だと思ったのですが、父が雷だろうと言って雷ということになりました。
そんな環境で外にいては危ないと思い、父と母には家の中にいるように言いました。
そして私はもう少し空を見ると言ってベランダに残りました。
私は普段寝る時に使っている掛け布団をかけてベランダで仰向けになるようにして空を見ていました。
すると更に流星の勢いは増していき、ついには私の方向に明るい星の欠片、隕石の様なものが向かってきました。
私は布団を頭まで被って防御。
痛みや衝撃は無かったものの、ものすごい熱さを感じました。
布団が燃えたのではないかと思って確認してみたのですが、燃えてもいなければ穴があいたりなどもありませんでした。
その後私は掛け布団を持って家に入って行きました。
ツッコミどころは随分と多いと思うのですが、夢の話ですから。
夢とはそういうものですから。
この夢の中で私は熱を感じました。
ものすごく熱くて完全に燃えてると思うぐらいでした。
夢では感じることがないと思われていた感覚があったわけです。
このことから夢の中で頬をつねって痛いと思うこともあるのではないかと思うのです。
夢の中で感覚があったことは初めてではないのですが、熱さというのは初めてで、かなり印象に残ったのでここに書かせていただきました。
2つ目の夢。
テレビでこだわりのラーメン屋さんが特集されていました。
2店舗目の沖縄のお店のラーメンがとてもおいしそうだと思いながら見ていると、なぜか我が家のテーブルの上に。
なんだかんだで食べるタイミングがつかめなくて一度テーブルのある部屋を出ました。
そしてまたテーブルのある部屋に戻ると父と母がいました。
ラーメンの方に目をやると、麺もトッピングも減っている様子のないどんぶりに父のお箸が食べている途中のように浸かっていました。
父が口をつけたお箸が浸かっているということでもう食べられないと私は激怒しました。
父は変わった味がすると、母もスープを飲んだようで美味しかったとそれぞれ感想を言ってきました。
どんなに怒ってもヘラヘラ笑う父に私は更に激怒し、許せない気持ちになって自分の部屋へ行きました。
気がつくと私は眠りから覚めました。
そしてラーメンの一件が夢か現実かわからなくなる状態に。
この夢か現実かわからなくなる状態を2、3回繰り返して結論は出ませんでした。
この夢では夢の中で夢を見るという不思議な現象がおきました。
これも今までにも経験したことがあるのですが、こういう夢を見る度に不思議に思います。
今回現実で目が覚めた時にはその瞬間にラーメンの話が夢だったということが鮮明にわかっていました。
夢とは言っても目の前にある美味しそうなラーメンが食べられないのはとても残念なことでした。
いつも現実で起こった話をここでしていますが、たまには趣向を変えて現実味のない話をしてみました。
しかし夢の話を読まされたところで、だからなんだとしか思えないだろうなと自分で読み返して改めて思いました。
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