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2018.04.16

長引く体調不良によりまたしても更新が遅れました。
この体調不良の原因は3月22日に遡ります。

3月21日の春分の日。
この日は雪が降るほどの寒さにみまわれました。
翌日の3月22日も前日の気候を引きずり午前中は雨が降っていました。
この日はお彼岸ということで、両親と共にお墓参りに行きました。
30km程離れたお墓まで私が運転していきました。
雨も降り気温も低く、車の窓ガラスは曇っていました。
車内は寒かったけれども暖房をつければ更にガラスが曇ってしまうのでつけられずにいました。
父方と母方のお墓はどちらもそう離れていないので1日で2ヶ所まわります。
どちらも少々雨が降った状態でのお墓参りになりました。
帰り道の途中で昼食をとりました。
お店に着いたのは11時30分頃でした。
昼食をとって体も温まり、そこからはまっすぐ帰ることに。
車に乗って数分で空は明るくなり日が出てきました。
自宅まではまだ25kmは離れた地点。
運転席の私に直射日光が刺さります。
暑くて仕方がありません。
そんなこんなで帰宅。
この日は何事もなく1日を終えました。

翌日からなんだか体調がおかしい感じがしていました。
一日中眠たかったり、眠たいのに3、4時間で目が覚めて長く眠っていられなかったり、やたらと寝汗をかいていたりと。
倦怠感もあったのでなるべく自宅で安静にして過ごすようにしていました。
恐らくお墓参りの一日の寒暖差で自律神経がおかしくなったものだと思います。

3月29日。
この日もまだ体調が優れずにいて、20時には眠たくなって眠ってしまいました。
眠っていると自宅の固定電話の鳴り響く音で目覚めました。
朝かと思いきやまだ23時半。
こんな時間に電話がかかってくるのはとても珍しく、気になったので母が電話を終えるまで起きていることにしました。
電話の内容は、叔父の心臓が止まって救急車で運ばれたとのことでした。
叔父というのは母の妹の旦那さんに当たる方なので、母が病院に駆けつけることにしました。
この時間ではもうバスや電車で行くことはできません。
運転免許を持っているのは父と私。
父は翌日仕事である上に飲酒もしていたので運転は無理です。
私も体調が悪かったので母はタクシーで行くと言いました。
病院までは30kmは離れています。
タクシーで行ったらいくらかかるかわかりません。
というわけで、私が運転することになりました。
しんどい体をなんとか動かして23時45分に家を出ました。
運転している途中のまだ日付が変わる前の時間に母の携帯がなりました。
叔父が亡くなったとの連絡でした。
そのまま病院に向かい、病院に着くと霊安室の場所を教えられました。
叔母は警察から叔父が亡くなった状況について聞かれていました。
次男は涙目で真っ赤になっていました。
叔父のいる部屋に入ると長男がただじっと叔父を見つめていました。
この長男と会うのは恐らく10年ぶりだと思います。
同い年で幼い頃から会えば楽しく遊ぶ仲でした。
その従兄弟との久しぶりの再会がこんな形であることにとても残念な気持ちになりました。
叔父のいる部屋から出てしばらくなんの待ち時間かよく分からない待ち時間を過ごしていました。
ただひたすら無言で座って待っていました。
叔母が警察から叔父が倒れた時の状況を聞かれているのが耳に入りました。
冷静に淡々と答える叔母。
警察官も一切情をかけることもなく淡々と聴取。
事件性の有無が重要なポイントになるのでしょう。
叔父が咳をしだして嘔吐をするようになっという話の時のことです。
警察官はなぜその時すぐに救急車を呼ばなかったのかと何度も叔母に詰め寄るような物言いで責め立てるように質問をしていました。
激しい咳をしていた叔父は叔母が救急車呼ぶよといった言葉に何も答えられない状態だったらしく、叔母も判断を迷ったのでしょう。
実際に咳と嘔吐の状態を見てすぐに救急車を呼ぶという判断に至ることが普通なのでしょうか。
私が同じ状況でもこの状態ではまだ呼ばなかったと思います。
しかし警察官は何度もなぜすぐ呼ばなかったのかと聞くものですから叔母が不憫で仕方なく思えました。
この先叔母は自分があの時早く救急車を呼んでいればとか自分のせいでこうなってしまったとか自分を責め続けることになるのかと思うととてもいたたまれない気持ちになりました。
事件性の有無は大事なことかもしれませんが、もし事件ではなかった時の叔母の心情は考慮してもらえないものかと。
全ての警察官が同じようなやり取りをするのかはわかりませんが、なんだかすごく嫌な気持ちになりました。
同情してほしいとも思わないし事務的な対応であってもいいと思うけれども、あのような対応の仕方はやはり受け入れられません。
後に叔父の遺体は別の場所へ移されて私と母は家路に着きました。
帰宅したのは3月30日の午前3時でした。
3時間しか眠っていなかったのですが、なんだか気が張って眠れずにいたので起きたまま朝を迎えました。
後に叔父の死因はおそらく大動脈解離だろうという連絡がきました。
事件性はありません。

体調が優れない中で夜中に遠出して、更にその状況が状況であったので体調が良くなるわけもありません。
そのまま良くない体調を引きずって4月2日にお通夜、4月3日に告別式となりました。
お通夜までの間にも色々と用意しなければいけなかったのでバタバタしていました。

4月2日のお昼過ぎに家を出て叔父、叔母夫婦の住む家へ。
叔父の遺体は1階にありました。
お線香をあげて2階へ。
従兄弟の子供達がいて賑やかで、1階とは違う世界のようでした。
私はすぐに子供達と仲良くなれたので、そこから私は子守り要因でした。
納棺式は子供達も一緒でなんだか賑やかな式になっていました。
みんなが笑顔になってしまうような納棺式に多少の違和感はありつつも、このような見送られ方はそれはそれで幸せだろうとも思いました。
子供たちだけでなく、福岡から戻ってきた叔父の3番目の子供である私の従姉妹もやらかしてくれました。
叔母はその時に叔父がニッと笑った気がしたと言っていました。
明るい納棺式でした。
それからしばらくしてからお通夜の会場へ。
私はこの日突然会計の手伝いを頼まれました。
結構な人数の方がいらっしゃるとのことでお手伝いが足りなかったみたいです。
なんの心構えもしていなかったのですが、やらないわけにはいきません。
なんとかやりきりました。
3人でやりました。
1人は両親と同世代の女性、1人は叔父の同級生ということなので両親よりは少し年上と思われる男性が一緒でした。
なんだか両極端なタイプと思われるお二人に挟まれながらも着々と作業もできてコミュニケーションもばっちりとれて、社会復帰できる自信が少しつきました。
2年以上仕事から離れて色々とダメになっているかと思っていたのですが、そう何も衰えていませんでした。
無事にお通夜を終えて21時半頃に帰宅。
この日の運転は私でしたが、翌日は父がしてくれるということで疲れはありましたがもう一日耐えられると思いました。

4月3日告別式。
午前9時に家を出て葬儀場へ。
この日は何も頼まれなかったので場内の親族側の席に座っていました。
物心ついてからこの位置に座るのは初めてでした。
叔父との最後のお別れと棺桶が開けられて叔父の姿が見えた瞬間に叔母は声を上げて泣き始めました。
親戚の女性陣はみんな泣いていました。
ただ1人私を除いて。
私はなんだか遠くからその様子を見ているような感じだったのです。
叔母や従兄弟達に感情移入すれば涙も出たと思います。
でもそうはならなかったのです。
その時は人間は誰しもいつか死ぬのは誰しもわかっているのに一緒になることを決めたのだから仕方ないのではないかと思ってしまったのです。
もちろん子供の側は何も選べないまま生まれてきたのであるから仕方がないとは思いませんが、私はこういう悲しい思いをするのが嫌だというのも理由として結婚をしたくないと思っているのです。
私が先に死んでしまったとしてもその後に苦労はかけるだろうしましてや子供もいたらその子供達もと思うとやはり結婚も出産も私はしたくないと思うのです。
私はマイナスのことがあってもプラスの方が大きければいいと思えるタイプではないのです。
マイナスのことがなくなるのならプラスのことなんてなくてもいい、そう思うタイプなのです。
だからといって結婚したり子供を持ったりする人を否定しているわけではありません。
人それぞれ向き不向きがあるというだけのことです。
さて、告別式の後は火葬場へ。
ここへも物事ついてからは初めて行きました。
火葬の最中は控え室で軽食が出ていたのでそれを軽くつまみながら待っていました。
1時間半ほどで火葬終了のお知らせがありました。
指示された場所に行くといくつもの骨が見に映りました。
長いお箸で2人1組で骨壷に骨を入れていきました。
全員が終わり、係の人が説明の必要な骨に関してはどこの骨かと言いながら骨壷へ移していきました。
私は骨を見て、善人も悪人もどんな人でも最後はこうなるんだなと実感しました。
そう思った時に自分が頑張っても頑張らなくても行き着く先は変わらないんだし、それなら無理しないでただただ死ぬまでの時間を生きていればいいのだと考えました。
何したって最後は同じですから。
葬儀場に戻り初七日。
すでにクタクタではありましたが、最後までしっかりと立ち会いました。
その後に食事が出て、帰宅すると19時過ぎ。
長い一日でした。
と終わればよかったのですが、予想よりも大幅に帰宅が遅れたことによって弟が電車で荷物を持って帰宅ラッシュのさなか一人暮らしの家に帰るのは困難という状況になっていました。
翌日弟は仕事ということもあり、私が車で送っていくことになりました。
弟の家までは30km程。
先程から30km離れているとこが多いですが、弟の家は全然違う方角です。
弟の家に着いたらそのまま帰宅。
もう何時だったか覚えていません。
とにかく疲れました。
そこまで疲れるのには1つ大きな理由があるのです。
それは靴です。
私の足のサイズが小さすぎて靴屋さんに私に合う靴が置いていません。
なので靴屋さんにある1番小さいサイズに中敷きを入れて対処しています。
元々横幅も狭めの靴を選んでいて、更に中敷で上下幅も狭くなっているので足が窮屈で痛いのです。
足が締め付けられていることにより、ももやふくらはぎにも影響します。
更に血行も悪くなっているのでたまにフラついたりもしました。
靴を履き替えてもいいタイミングになれば普段の靴に変えていたのですが、告別式の時にはそのタイミングがなかなかなくてかなりしんどかったです。

告別式の翌朝、鼻の奥近くの喉に痛みがありました。
風邪引いたかなと思ってその日一日自宅で安静に。
翌朝上顎の辺りに痛みが広がりこれは風邪のひきはじめだと確信したのでこの日から市販の風邪薬を飲むことにしました。
するとその翌朝には喉の痛みは軽くなっていました。
しばらくはほとんど横になって過ごす日が続きました。
風邪薬を飲むといつも知らない間に眠っていました。
朝も寝て昼も寝て夜も寝てと。
風邪薬も1箱飲み終えてそれからは飲むのをやめました。
1箱飲んでも完全に治りはしなかったのでこれ以上の効果は期待出来ないと思ったのです。
それからどれぐらい経ったかわかりませんが、未だに体調は良くありません。
喉が痛い日もあれば鼻水が止まらない日もあります。
お腹も2 回壊していて胃痛もありました。
体のあらゆるところの疲労が回復しません。
寝ても休んでも何しても。
こんな状態で四十九日も行くことになってしまいました。
一度は母が私は靴が合わないとの理由で両親だけで行くと断ったのですが、叔母に私も来てほしいと言われて行くことに。
こういう事で来てほしいと言われて靴を理由に断ることができるでしょうか。
私が行くのを躊躇した理由は本当に靴の問題だけなのです。
その靴によって引き起こされた現状をまた繰り返すことが怖いのです。
ただそれだけの理由であればやはり断れません。
けれどもやはり緊張の糸は切れることなく今も張り続けています。
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プロフィール

nat225

Author:nat225
2016.02.15日にうつ病により退職。
2016.09.06に頑張らないで生きていこうと決めました。
好きな時に好きな事をしています。
2018.03末頃より頑張らないことが無理な状況になりました。
2019.05.18にブログのタイトルを「頑張らない体験記」から「頑張らない体験断念記」に変更しました。

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